63、アブソーブ。

最近はずーっと適当にタイトルをつけていたんですけれど、今日のタイトルはちゃんと意味があってこれになっています。
まあ、大した意味はないですけれどね。あんまりにも書くことがないので言葉遊びをしてみたという程度の話です。
 
働きました。
あとはイカを操作して、それで大体人生の説明が尽きます。
 
何かしら長文を書きたいけれど、中身がさっぱり思いつきませんね。
絵や漫画やお話を書きたくても書きたいないよいうがないし、楽器を演奏したくても弾きたい曲はないし、電子工作したくても作りたいものはないし、料理したくても食べたいものはないし。
すごく大雑把にいうと、死にたくないけれど生きている意味はないみたいなところです。
 
人生で一番精神が死んでいた頃*1は、ここにも書けないようなアレな考えが色々と浮かんでは消えていたけれども、それでも死にたかったことはただの1度の間かったので、無事に生きてます。
その頃に比べると今はずいぶん調子がいいのかもしれませんし、負の感情が消えて虚無が残ったようにも感じます。
まあでも日々食べていけていてお金にも困っていなくてそんなに悪くない仕事をしているのできっと幸福なんでしょうね。
思うに、自分が幸福かどうかの尺度を、どこかに忘れてきたような気がするというか、最初から持っていなかったような気さえします。
別に幸福に限った話ではないですけれど、美味しいとか楽しいとか痛いとか辛いとか。
自分が感じている美味しいが、楽しいが、痛いが、辛いが、幸福が、他人にはどう感じているのか。
 
自分の環境や生活、身体に、考え方だけ他人の脳を移植したとき、その脳は何を感じて何を感じないのか。
あるいは、他人の環境に自分の脳を移植して、自分は同じように感じ取ることができるのだろうか。
間違いなく別のことを感じると思います。現状幸せな人は誰に移っても幸せだろうし、自分が誰に乗り移っても虚無のまま。
そうであるならば、すべての外的刺激は自分のフィルタを通さなければ感じ取れないわけで、つまりすべての物事は各々の脳内だけで完結しているってことなんですよね。
これ、以前にも書いたような気がしますけれど。日々そんなことを考えたり考えなかったりしています。
まあ、何にも考えてないし、考えても何にもなりませんね。

時事ネタについて書くのもいいんですけれどもなんか違うし、かといって毎日話題にするようなこともなく、それでいて外に向けて発信するようなこともないです。
僕は昔から将来の夢とか目標みたいなのは一切ないか、明らかに無謀なものしかなかったんですけれど、その時々で憧れというのはいくつかあったりしました。
で、大学〜修士にかけてあこがれていたのは、研究者とパン屋とコピーライターとコラムニストでした。
コラムニストって、別に目指してなるようなものじゃあないと思うんですけれど。何か専門的に秀でていたり、編集者だったり。どうやってなるかもあんまりイメージが付かないし。
でも、自分が書きたいことというより、あるお題に沿って何かを語る、というのはなんというかとても羨ましく思いました。
当時もここに、常にネタがないと書き続けていましたが、内心では何か書きたいけれど何にも書くことがなかったり全くまとまらなかったり。
今回もそうですけれど、こう期間が長いと、自然と書くこともループしてしまうのでおんなじない様ばっかりになってしまいます。まあ何にも成長、変化をしていない証左なんでしょう。
 
これも何度目になるかわかりませんけれど、書くことがないのも主体性がないのも、自信というか自尊心というか、書けているのが原因なんだと自分では思っています。
若しくは逆に、そういうものが足りないから自信が欠けているのか。
鶏と卵の比喩よろしく、どちらが因でどちらが果かわかりませんけれども、いったんそういう状況に陥ってしまうと、そういう志向のスパイラルが形成されて閉じていってしまいます。
一度失ったもは取り返すことも埋め合わせることも難しい、なぜなら取り返したり埋め合わせることができる人は一度も失わないような人だから。
 
 
 
 
みたいな。
まあ要するに、書くネタがないのでなんかお題くださいってやつです。
誰も見てないし誰もくれないけれどね。
以前の週刊お題みたいなやつ、結構好きだったけれどなくなってしまったんですね。

*1:修士前後