136、催眠ガス。

今日も元気に職場で怒られてきました。
これは個人の感想なんですけれど、同じ担当内に僕と同等かそれ以上に仕事でミスをしたり適当だったりする人がいます。
彼は彼でいろいろと言われており、僕は僕で怒られていますが、彼は何というかいわゆる"いじられキャラ"という感じで扱われており、「もう、しょうがねえなあ」というような怒られ方をしており、僕は「ちゃんとやってください」みたいな感じの怒られ方をします。
僕はそういう「いじられキャラ」的ポジションは経験上絶対に嫌なので羨ましいとかそういうのはありませんけれど、端的にいって信頼されていないのが伝わってきていますね。
まあ完全に日ごろの行いというか、コミュニケーション不全なんだと思います。以前よりうまくやっているつもりでも、なかなか人並みまではいかないといいますか。
難しいものです。

  • 普通とか一般的とか常識とか。

僕は「普通」「一般的」「常識」みたいな言葉は嫌いです。怖いとかではなく。普段関わりのある人はあえて書かなくても察していただけるかもしれませんけれどね。
 
なぜ嫌いかというと、こういうワードって結構な割合で"「普通」「一般的」「常識」ではないもの"を批判する時に使われがちで、つまり正論の枕詞みたいなものだからだと思います。
正論てのはまあ確かに正しい論なんですけれども、何かしらの事情や都合で正論通りにいかないから問題になるため、そういう都合を斟酌しない暴力的な論理だからです。逆にいえば、問題にならなければ(=意見が食い違わなければ›正論が話題になることなんてありませんからね。これも何度か書いていたような気がしますけれども。
とりわけ正論の中でも"「普通」「一般的」「常識」であること"の閾値は個人間でのばらつきが大きく、使う側次第で恣意的に変容します。
「アウトとセーフの境界線は?」「何割以上だと普通で一般的で常識の範囲内なの?」「母数の性質は?」
こういうことを聞いたら、間違いなくおんなじ普通/一般的/常識像が返ってくることはないでしょうね。
 
僕はどちらかというと意見が食い違ったりすることが多く、つまりそれはどちらかというと多数派でないことが多いという事なんですけれども、多数派でないがゆえに「普通は○○しない」「常識的には××ではない」と言われる機会が多かったように思います。僕は他人じゃないから、他人は僕よりもっと言われて育っているかもしれませんけれどね。
なのでこういう「普通は〜だ」みたいな話が出るたび、「丸め込もうとしているんだな」というような脳内アラームが鳴ってしまいます。
 
 
「普通」「一般的」「常識」などを聞くたびに2つ思い出す話があります。
1つ目は「みんなという人間はいない」。これ、知ったのは某ラノベのセリフだったかモノローグだったと思います。
よく子供たちが言う、または言われる「みんな持ってるよ」とか「みんなちゃんと勉強してるよ」みたいな。そういうありもしない理想の虚像の正体を明かしてくれたいい考え方だと思いました。
2つ目は「一歩下がればみんなおんなじ田んぼ」。正確な表現は覚えていないんですけれども、だいたいこんな感じだったと思います。
近寄ってみれば短かったり長かったり、あるいはよく実ってたり全然実ってなかったりな稲穂も、ちょっと離れて遠くから見れば概ね同じように生えているというような趣旨でした。
どんなに背が高くても5m超える人間もいなければ音速で走れる人間もいない、なんて喩えも一緒に言っていたかもしれません。
たしか中学校の頃通っていた塾の、入試前の最後の授業みたいなタイミングで言われと記憶しています。そのあとは「志望校落ちてもその時はつらいだろうけれど、まあいいじゃない」みたいな話だったと思いますけれどそっちはあんまり心に残ってないです。
ついでにいうと今まで所謂恩師だと感じた人はおらず、勉強・学問以外で教師とか教授とかから教わったことって殆どないというか覚えていないという感じなんですけれども、この考え方だけは今でもたまに思い出します。
 
なので、そうやって普通や一般や常識を押し付けられそうになるたびに「自分は普通ではないかもしれない、でも相手も普通ではないかもしれない*1」というのと「そうはいっても自分も人間の範囲を逸脱していないから結構普通なほうだな」と言い聞かせて心の平穏を保っている感じです。
 
 
でもまあ、思い返すと自分でも正論とか使ってしまう場面があるため、苦々しい感じになってしまうわけですけれども。

*1:あるいは、自分が普通でないからといって相手が普通である照明にはならない